諧玄文学 / Nonsensophy 投稿作品

『取り消し履歴』

読了目安:110秒

この世界では、人生の失敗もCommand+Zで取り消せる。ただし、取り消した事実だけは履歴に残る。操作は簡単で、左手の親指と人差し指を軽く曲げ、右手で空中のZを押せばよい。私はデザイナーなので、この操作には慣れている。先週は取引先の名前を間違えたので一回、鍋を焦がしたので二回、夫に余計なひと言を言ったので三回押した。鍋は元に戻ったが、夫はなぜか少し疲れていた。 履歴は本人にしか見えず、削除もできない。私の履歴には現在一万二千四百六十八件の取り消しがある。便利なのは検索機能で、「失言」と入力すると過去の発言が日付順に並ぶ。ただし、何を言ったかは表示されない。取り消された以上、その発言は存在しないからだ。先日、友人から「あなたって失敗しないよね」と言われた。私は礼を言い、帰宅してから履歴を確認した。その日の取り消しは七件だった。 最近は操作に慣れすぎて、何も起きていないのに指が動くことがある。昨日は夕食の途中で無意識に押してしまい、食卓の上の焼き魚が生に戻った。夫は黙ってもう一度焼いた。今朝、履歴を開くと、覚えのない取り消しが一件増えていた。時刻は午前三時十四分。内容は「保存しますか?」だった。 私は念のためCommand+Sを押したが、どこに保存されたのかは分からない。

この話をシェアする

← 一覧へ戻る