諧玄文学
名詞 ★造語 かいげんぶんがくNonsensophy
諧玄文学(かいげんぶんがく)とは、意味への従属から解放された、諧謔と玄妙の文学。読み終えると、何かを理解したような、何も理解していないような余韻が残る。
諧玄(かいげん)とは、Nonsense と Philosophy を合わせた「Nonsensophy(ノンセンソフィー)」 という造語の日本語訳として、琴川夕星が考案したお笑い芸術ジャンル。
既存ジャンルとの差異
系譜としては、ナンセンス文学(ルイス・キャロル、エドワード・リア)、不条理文学(カフカ、ベケット)、シュルレアリスム、マジックリアリズム(ガルシア=マルケス)の交差点に位置する。ただし、その模倣ではない。ナンセンス文学は意味を壊して遊び、不条理文学は意味の不在を引き受け、マジックリアリズムは非現実を日常に溶かす。諧玄文学は、意味を壊さず、意味の不在を嘆かず、意味に従属しない——第四の態度である。
諧と玄
「諧」は、滑稽・諧謔・遊戯性。字源は言偏に皆——言葉が皆で和する、すなわち諧和・調和の意である。
「玄」は、奥深さ・説明しきれない不可思議さ。老子は「玄のまた玄、衆妙の門」と説き、色としては黒を指す。笑いが調和であり、深さが黒である。
滑稽だけど、哲学的。意味不明だけど、味わい深い。
意味に従属しない、ということ
諧玄文学は、無意味な文章を書くことではない。意味を否定することでもない。出来事のすべてに理由や解釈を与えず、意味が確定しない状態そのものを豊かさとして肯定することである。
意味はあってよい。ただし、ひとつに固定しない。意味の有無という二辺のどちらにも立たず、そのあいだに宙吊りのまま作品を置く——読者の側に、満ちた余白として残す。これは、理解という必然から解放された読書の形式であり、文学における遊びの純粋型である。
五つの原理
- 論理的な非論理 出発点に非現実的な前提をひとつ置き、そこから先はできる限り筋道立てて展開する。前提は狂っているのに、登場人物の判断は妙に合理的である。
- 非現実の日常化 ありえない現象が起きても、登場人物は必要以上に驚かない。台所で、商店で、家族の食卓で、現実的な問題として処理しようとする。
- 真顔のユーモア 笑いの中心は、言葉遊び、概念の取り違え、論理の逆転、過剰な合理性、仕組みの矛盾にある。語り手は笑わせようとしない。どれほど馬鹿馬鹿しい出来事も、記録や報道のように冷静に書く。
- 詩的な飛躍 現実的な描写と突拍子もないイメージを接続し、思いがけない美しさを生む。ただし美しく書くことを目的にしない。
- 意味の宙吊り 最後に謎をすべて解決しない。教訓も答えも結論も提示しない。読み終えた瞬間に、それまでの論理が少し揺らぎ、別の解釈の可能性が生まれる。
読者の体験
読者の体験は、滑稽から逆説へ、逆説から玄妙へと広がる。笑いが主旋律、哲学が対旋律、詩情は残響である。作品が終わったあとに残るこの残響こそが諧玄文学の本体であり、本文はそのための器にすぎない。
笑いが主旋律、哲学が対旋律、詩情は残響。