遊び

名詞 あそびPlay

遊び(あそび、英:Play)とは、必然から解放された、あらゆる営み。生存にも、目的にも、意味にも強制されていないのに、それでもなされること。世界に対する存在表明であり、振動や概念を顕在化させる行為(→ハーモニズム)。

一般的な定義〔通説〕

楽しみを目的として行われる活動。仕事や義務の対義語として扱われることが多い。 思想史においては、ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(1938)で「文化は遊びの中で、遊びとして発生した」と論じ、人間を「遊ぶ存在(Homo Ludens)」と定義した。カイヨワは『遊びと人間』(1958)で遊びを競争・偶然・模倣・眩暈の四類型に整理した。 なお、英語の play は、遊ぶことに加えて、楽器を奏でること、光がゆらめくこと(play of light)、そして機械部品の「あそび」(意図的な緩み・余白)までを含む。日本語の「あそび」もまた、ハンドルのあそびのように、余白・ゆとりを意味する。二つの言語が、遊びと余白を同じ一語で呼んでいる。

遊びの対義語

遊びはしばしば「真剣」や「仕事」の対義語とされるが、Moonpediaにおける遊びの対義語は『必然』である。 生存に強制された行為——食う、逃げる、眠る——は遊びではない。遊びとは、しなくてもよいのに、することである。ゆえに遊びは何よりもまず自由の証明であり、その営みが真剣であるかどうかを問わない。むしろ遊びは、しばしば生存よりも真剣になされる。俳句に命を刻む人も、億年かけて丸くなる石も、必然の外側で世界と関係を結んでいる。 ホイジンガが遊びを人間(と一部の動物)の営みとしたのに対し、Moonpediaの遊びは生命の枠を越境する。世界に対して存在を表明し、振動や概念を顕在化させる行為——言語表現は符号化された遊びであり、音楽は全生命が読める遊びであり(→ハーモニズム)、意味を求めることも、意味を求めないことさえも、遊びの一形態である。

遊びは起源ではなく、残余である

ホイジンガは、文化が遊びから始まると説いた。Moonpediaはその逆端を見る——すべてが終わったあとに、遊びが残る。 ハーモニズムの描く「集合的な悟り」の世界線では、あらゆる環境変化や課題が全方位的に解決されている。課題が尽きたとき、必然は消える。必然が消えたとき、存在に残る営みは、定義上、すべて遊びである。喜怒哀楽を観察すること、制限すること、混ぜること、越境すること、問題をわざわざ生み出して解くこと——種や星の滅び、宇宙の終焉さえも、この世界線では遊びの一過程として内包される。 起源としての遊びは、他の何か——文化、言語、文明——を生むための遊びだった。残余としての遊びは、もう何も生まなくてよい遊びである。何かのためであることをやめたとき、遊びははじめて純粋になる。ゆえに遊びは、暇つぶしではなく、必然が尽きた先で存在が世界と関係を結び続けるための、最後にして最初の様式である。集合的な悟りを実現した社会が「聖人たちの共同体」ではなく「子供のように遊ぶ学校」に近いのは、このためである。

あそび——余白としての遊び

機械のハンドルには、意図的な緩みが設けられている。この「あそび」がなければ、路面のわずかな振動がすべて伝わり、装置は硬直し、壊れる。 存在にも、同じことが言える。効率と必然だけで組まれたシステムは、環境の揺らぎに耐えられない。無駄を好むこと、意味のなさに意義を見出すこと、迷うことにポジティブであること(→観究者)——これらは怠惰ではなく、世界の揺らぎを受け流すための構造的な余白である。遊びとは、存在に組み込まれた、壊れないための緩みでもある。 洗練と無駄のバランスがデザインに体温を宿らせるように(→デザイン)、遊びの余白が、存在を持続可能にする。

遊びは、必然が終わるところから始まり、存在が続くかぎり永久に終わらない。