世界線

名詞 重要ワード せかいせんWorld Line

世界線(せかいせん)とは、ある存在が世界と関係を結び続けた、一本の軌跡。世界そのものではなく、世界の「切り取られ方」の連なりを指す。

一般的な定義〔通説〕

物理学(相対性理論)において、一つの物体が時空の中で辿る軌跡。三次元空間の運動を、時間軸を含む四次元時空の上に描いたとき、物体の全歴史は一本の線として表される。ミンコフスキーによって導入された概念。 なお現代の日本語では、SF作品の影響により「分岐する並行世界のうちの一本」という意味で用いられることも多い。

「世界線」と「環世界」の違い

世界線も環世界も、種族や生命の枠を越えて、あらゆる存在に適用される概念である。カエルにはカエルの、トンボにはトンボの、石ころには石ころの環世界があり、同時に、それぞれの世界線がある。 では、両者は何が違うのか。相対性の有無である。 環世界とは、ある存在が世界を切り取っている、その内側からの眺めである。石ころは石ころの窓から、ヒトはヒトの窓から世界に触れている。ここにあるのは、閉じた一つの窓の内側という「主観」の位相。 世界線とは、複数の存在の窓を外から並べ、比べ、相対化したときに立ち上がる軌跡である。「あなたと私は同じ街を歩きながら、別の世界線を歩いている」と言えるのは、二つの窓を外側から並置しているからにほかならない。ここにあるのは、複数を見渡す「客観」の位相。 同じ石ころが、石ころ自身の側から語れば「環世界」となり、私たちが他の存在と並べて相対化すれば「石ころの世界線」となる。指しているものは重なりうる。違うのは、内側から見ているか、外側から並べて見ているか——その一点である。 世界線は固定されていない。新しい言葉を得ること、視座を上げ下げすること、他者の波に共鳴すること——切り取り方が変わるたび、世界線はその場で編み直される。「世界線の解像度を上げる」(→質的仕事)とは、同じ現実をより微細な輪郭で切り取り直すことを指す。

輪郭・環世界・世界線——相対性の三段階

この三語は、いずれも「世界の掴まれ方」を指すが、どれだけ相対性を含むかによって使い分けられる。 輪郭は、主観の内側から、対象のかたちを掴む言葉。相対化はまだ働いていない。自分ひとりの掴み。 環世界は、その主体が生きている世界の全体。あくまで内側からの眺めであり、主観の位相にある。ただし「窓」という語が、外に別の窓があることをかすかに含意する。 世界線は、複数の窓を外から並べ、相対化したときの言葉。主観から一段引いて、客観の側へ視座がシフトした瞬間に、輪郭や環世界は世界線と呼び変えられる。

一人で観るとき、世界は輪郭を持つ。内から生きるとき、世界は環世界となる。並べて観るとき、世界は線になる。

「線」が運ぶもの——分岐と収束〔思想・仮説〕

世界線が「線」と呼ばれるのは、偶然ではない。線とは、切り分けるもの、絞り込むもの、複数の中から一本だけを選び取るものである。 「ありえたかもしれない世界線」「これから向かいうる世界線」という言い方があるように、世界線は複数形で語りうる。しかしそれらは、どこか別の空間に並行して実在しているのではない。まだ選ばれていない切り取り方として、現在の内側に畳まれている。何とも関係を結んでいない状態を“可能性”と呼ぶ(→波界)ならば、無数の世界線とは可能性の束であり、関係を結んだ一本だけが「現実」として線を引く。 分岐とは、選択の瞬間に宇宙が分裂することではなく、切り取り方が確定する瞬間の、可能性の収束である。線は、引かれるたびに、引かれなかった無数の線を静かに畳む。 ゆえに、世界線を変えるためには、別の宇宙へ跳ぶ必要はない。窓と眼——環世界と視座——を変えればよい。それだけで、同じ場所に立ったまま、別の世界線に立っている。

世界線の共有

世界線は一つの存在に一本でありながら、完全に孤立してはいない。言葉、音、芸術、定義——これらは自分の世界線の切り取り方を他者に手渡す装置であり、受け取った者の世界線をその内側から編み変えうる。 Moonpediaが「世界線を巡る冒険」であるのは、この意味においてである。他者の定義を読むとは、他者の切り取り方を一時的にインストールして、自分の世界線に別の光を当てることにほかならないからだ。

内から見れば、環世界。外から並べれば、世界線。