二辺を離れる

名詞 にへんをはなれる

二辺を離れる(にへんをはなれる)とは、さまざまな縁起・相対関係によって浮かび上がる輪郭の幅(=二辺)を前提としながらも、それに捉われず、二辺のあいだに働いている関係性そのものを観ること。この二辺の間にある本質を「空(くう)」と呼ぶ。

一般的な定義〔通説〕

仏教、とりわけ龍樹(ナーガールジュナ)に始まる中観派の根本姿勢。有と無、常と断、快楽と苦行——対立する二つの極端(二辺)のいずれにも執着せず、中道(madhyamā-pratipad)を歩むこと。中道とは二辺の中間地点や折衷ではなく、二辺という枠組みそのものから離れることを指す。

辺は対立するとは限らない〔Moonpedia的解釈〕

仏典における二辺は対立する両極を指すが、Moonpediaはこの「辺」を、意味を形づくるあらゆる相対関係へと拡張する。 「おちょこ」という概念を考える。ここから先は茶碗、ここから先は湯呑、ここから先は小皿——おちょこは、近接するものたちとの無数の「ここまで」によって囲われ、その内側に浮かび上がる。茶碗との辺、湯呑との辺、小皿との辺。これらは対立していない。ただ相対しているだけであり、時に重なり合ったり、時代や環境によって揺れ動く。 何かが意味を持つとは、こうした辺を持つということである。そして辺の集合こそが、輪郭にほかならない。おちょこというもの自体(イデア)はどこにも存在しない。ただ関係性の網があり、その網目のひとつが、暫定的に「おちょこ」と呼ばれているだけである。

中観と空

二辺を離れるとは、辺を消すことでも、辺のどれかを選ぶことでもない。辺と辺のあいだ——輪郭の内側で働いている関係性そのもの——へと眼を移すことである。この観方を「中観(ちゅうがん)」と呼ぶ。 そして、中観が観ているその本質——あらゆる存在を存在たらしめている関係性そのもの——を、空(くう)と呼ぶ。 空とは、何も無いことではない。関係性である。固定した実体がどこにも無いままに、関係だけが世界を編んでいる、そのことである。ゆえに、実体として現れている辺を通して空を観てもよく(色即是空)、辺を通さずに空そのものへ向かってもよい(空即是色)。どちらから観ても、観えるものは同じ一つの関係性である。

輪郭を保ったまま、輪郭を離れる

二辺を離れることは、判断の放棄でも、輪郭の破壊でもない。 輪郭は、認識が世界を掴むために引く線であり、それなしにいかなる認識も成立しない。二辺を離れた者も、おちょこをおちょこと呼び、茶碗を茶碗と呼び続ける。変わるのは呼び方ではなく、観方である——その輪郭が実体の縁ではなく、関係の網目であると知りながら、なお輪郭を使う。 是か非かを問われれば、是と非とを結んでいる関係を観る。おちょことは何かと問われれば、おちょこを囲んでいる無数の辺を観る。輪郭を握りしめず、輪郭を手放さず、輪郭の出どころを観続ける。

器を器たらしめているのは、器ではなく、器のまわりである。