名詞 重要ワード つきMoon

Image Credit: NASA
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月(つき、英:Moon)とは、地球の唯一の自然衛星。ヒトが最も長く見上げてきた天体であり、これほど近くにありながら、その半面を永遠に隠し続けている、最も身近な不可知。

一般的な定義〔通説〕

地球からの距離は平均約38万km。重力は地球の約1/6。 約45億年前、原始地球への巨大天体衝突で飛散した破片から形成されたとする説(ジャイアント・インパクト説)が有力。潮汐力によって自転と公転の周期が一致しており(潮汐固定)、地球にはつねに同じ面だけを向けている。ヒトは、月の裏側を一度も地上から見たことがない。 月は潮の満ち引きを生み、地球の自転軸のふらつきを抑え、気候を安定させてきた。暦(month)の語源であり、太陰暦を通じて人類の時間感覚そのものを規定している。

世界における月の呼び名

  • 日本語:月(つき)
  • 英語:Moon(ムーン)
  • ラテン語:Luna(ルーナ)
  • 古典ギリシャ語:Selēnē(セレーネー)
  • 現代ギリシャ語:Feggári(フェンガリ)
  • サンスクリット語:Candra(チャンドラ)
  • ヒンディー語:Chānd(チャーンド)※チャンドラの末裔
  • タイ語:Duang Chan(ドゥアンチャン)※チャンドラの末裔
  • ペルシャ語:Māh(マーフ)
  • アラビア語:Qamar(カマル)
  • ヘブライ語:Yareach(ヤレアハ)
  • フィンランド語:Kuu(クー)
  • ハンガリー語:Hold(ホルド)
  • トルコ語:Ay(アイ)
  • モンゴル語:Sar(サル)
  • 中国語:月亮(ユエリャン)
  • 韓国語:달(タル)
  • インドネシア語:Bulan(ブラン)
  • スワヒリ語:Mwezi(ムウェジ)
  • ズールー語:Inyanga(インヤンガ)※「癒し手」の意
  • ハワイ語:Mahina(マヒナ)
  • マオリ語:Marama(マラマ)
  • ケチュア語:Killa(キリャ)
  • アイスランド語:Tungl(トゥングル)
  • バスク語:Ilargi(イラルギ)※「死者の光」とする民間語源がある
  • アイヌ語:Kunne Cup(クンネチュプ)※「夜の太陽」の意

ナラティブとしての月

月は、ヒトという種が共有する最古の銀河級ナラティブ(→ナラティブ・グラビティー)のひとつである。

神話、宗教、暦、和歌俳句、かぐや姫、狼男——あらゆる文化が月を物語に織り込み、月を基準に時を刻んできた。誰もその重力を意識しないまま、月は全人類の時間感覚と美意識の底で働き続けている。 そして現代、人類を再び月へ運んだ計画は「アルテミス」——月の女神の名を負う。神話は終わっていない。

「月」というナラティブが、ロケットを飛ばしている。

虚像としての月

月光というものは、本来存在しない。人類が月の光と呼ぶものは、太陽光の反射であり、誰ひとり、月自身が発した光を見たことがない。 満ち欠けもまた、月が変化しているのではない。太陽と地球と月の位置関係——観る角度が変わっているだけである。三日月の夜も、十六夜(いざよい)も、月は欠けていない。つまり月とは、それ自体としてではなく、関係によってのみ姿を現す天体である。借りた光で輝き、角度によって形を変え、半面を決して見せない。輪郭が関係の産物であることを、月は毎夜、空でやってみせている。

ツクヨミの沈黙

古事記において、月読命(ツクヨミ)はアマテラス・スサノオと並ぶ三貴子でありながら、誕生の場面を除いて、物語からほぼ完全に姿を消す。最も高貴な神の一柱が、なぜ語られないのか。 ひとつの仮説として、こう考えることができる——古事記という物語自体が、生まれてすぐ月へ渡ったツクヨミの視点から語られた物語なのではないか。語り手は、物語の中に登場しない。もしそうなら、ツクヨミの沈黙は欠落ではなく、必然といえる。

月は、地球という物語を観るために設えられた、観究者の特等席なのかもしれない。

月見で一献

月見酒(つきみざけ)とは、月を眺めながら酒を酌むこと。ただそれだけの営みが、日本では千年以上続いてきた。 盃に酒を満たせば、水面に月が映る。空を見上げなくても、手元に月がある。李白(中国・唐の時代を代表する詩人)は水中の月を捉えようとして舟から落ちたと伝えられ、日本の月見はもう少し穏やかに、掬わず、呑むことを選んだ。

盃の月は、呑み干せば消える。また注げば、また顕れる。

ここには、このページで述べてきたことのすべてが、小さく畳まれている。 盃の月は、月ではない——月の光の、水面での反射である。そしてその月の光自体が、太陽光の反射である。つまり月見酒の呑み手は、反射の反射を眺めている。虚像のさらに虚像。それでいて、盃を傾ける手も、口に残る余韻も、隣で同じ月を見上げる誰かも、現実のように感じる。 悟りの高みも、宇宙の視座も、最果てはここへ舞い戻ってくる。山頂は住む場所ではない。降りた先の縁側で盃に月を浮かべ、ただ一献。 これを真の「豊かさ」と呼ぶのだろう。

月は掴めない。だから、浮かべて光を呑む。